肥前忠吉

肥前忠吉は、江戸初期に肥前国を中心に活躍した新刀派の刀工である。元は肥前の戦国大名龍造寺隆信の家臣橋本道弘の子で本名を橋本新左衛門という。

天正12年、沖田畷の戦いにおいて祖父と父が討死し、忠吉はまだ13歳であったため知行断絶となった。その後、忠吉は刀工になる道を選び、山城国の埋忠明寿に入門した。慶長3年、肥前国佐賀に帰国。

佐賀藩主鍋島勝茂に刀工として世禄25石で召し抱えられた。 晩年、「武蔵大掾」を受領した。忠吉の銘は、作刀時期によって4つの銘に分かれる。初期は肥前国忠吉の「五字忠銘」次に僧侶秀岸の文字を真似た「秀岸銘」肥前国住人忠吉作と銘を切る 「住人銘」を経て、武蔵大掾を受領し名を忠広と改め武蔵大掾藤原忠廣と切る「忠広銘」と変遷する。

代表作には特別重要刀剣 「刀 銘 肥前国忠吉(倶利伽羅)」重要刀剣「刀 銘 肥前国忠吉」重要美術品「肥前國住藤原忠廣/刳物 埋忠七佐」などがある。