鏡新明智流

構えの美しさ、品格においては群を抜いたとされる鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)。
四代目桃井春蔵の凛とした美しさによって、江戸の三大道場ととして数えられた士学館、剣豪として有名である人物といえば岡田以蔵、そして武市半平太です。

土佐藩きっての剣豪とうたわれる武市瑞山(たけちずいざん、半平太のことです)。
彼が初めて剣を習ったのは12歳の頃で、一刀流において免許皆伝、後に百人を超える門弟を有する道場を開きました。江戸への剣術留学が許された武市瑞山は、門弟の岡田以蔵、中岡慎太郎を引き連れ、桃井の士学館へ入塾しました。武市瑞山は稽古熱心であり、他流試合などを数多くこなし、後に塾頭となります。祖母の病状悪化に伴い帰国した武市は、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らと交流し尊皇攘夷思想を固め、ついには土佐勤王党を結成しました。

多くの政敵暗殺を行った土佐勤王党でしたが、長州藩失脚と同時に攘夷志士への弾圧が強まり、武市らは投獄されました。武市瑞山37歳の時、切腹を命じられ、自決したとされています。

武市の江戸留学に同行した中岡慎太郎は、同じく桃井の士学館へ入塾。武市が創設した土佐勤王党にもいち早く参加したそうです。土佐藩において尊皇攘夷派への弾圧が始まると、中岡はすぐに脱藩します。都落ちしていた三条実美の従者となり、各地の脱藩志士をまとめた才覚ある人物でした。攘夷志士への弾圧を前に、武力倒幕へと道を進めた中岡は、坂本龍馬らと同様に各地を回り、薩長同盟などの締結に尽力しました。
しかしながら、倒幕、開国の夢を目前に、坂本龍馬ともども近江屋にて暗殺されたとされています。