茎に刻まれた銘文「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の解明はいまだなされていない。時代は鎌倉時代中期、筑後国の三池典太光世の作。刀身は、上質な玉鋼が使用されており、身幅が広い鎬造。切先は猪首切先。古刀を彷彿とさせる風雅なしつらえとなっている。所有は、徳川幕府の創始者徳川家康である。元和2年4月、自らの最後を悟った家康は、徳川幕府の存続と徳川家の安泰をこの名刀に託した。元和元年、大坂夏の陣での徳川方の勝利、豊臣氏の滅亡、大坂城の落城により全国的な騒乱は静まったが、西国を中心に争いの火種は燻り続けたままだった、憂慮した家康は、家臣達に遺言として「我亡き後は、ソハヤノツルキウツスナリの切先を西国に向けて立てておくように」と言い置いた。家康は、当初、駿河国の久能山(久能山東照宮)に祀られた。ソハヤノツルキウツスナリもここに奉納され、第一級の宝物として伝承されている。戦国乱世を生き抜き、最終的な覇者となった家康には、この名刀が持つ言い知れぬ力を見抜いていたのかもしれない。現に徳川幕府は約260年の天下泰平を永続させたのだから。
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名刀の記憶を探って
<天下五剣>・・・「童子切安綱」「鬼丸国綱」「三日月宗近」「大田太光世」「数珠丸恒次」この五振りの日本刀を「天下五剣」と呼んでいる。室町時代に、特に優れた名刀として定められた。平安時代から鎌倉時代に活躍した名工の入魂の作である。
・童子切安綱・・・天下五剣の筆頭名刀忠の名刀。伯耆国{鳥取県西部)の大原安綱の最高傑作で平安時代に作られたとみられるが詳細は不明。刃長二尺六寸五分)(約80cm)の太刀である。
「童子切」という異名は、丹波大江山に棲む鬼神・酒呑童子を退治した事に由来する。
平安時代中期、源頼光が酒呑童子の首を切落とした太刀こそが「大原安綱」後に「童子切安綱」の異名を冠せられることとなる名刀である。現在は国宝に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。
国宝としての日本刀
“日本刀は武器としても美術品としても一級品です。切れ味や耐久性を見ると優れた武器と言えますし、装飾や形状に着目すると立派な芸術品と考えられます。しかしこうした評価のみでは、日本刀を正しく認識できないのかもしれません。実際、日本で国宝に指定されている刀剣は大変多く、何と国宝の10%を占めています。工芸品というカテゴリーで見ると、40%にのぼります。正に国宝であって、単なる作品の域を超えていると言えます。つまり国民が文化財として保護しなければならない逸品なのです。
実は古代や中世には既に、日本刀のこうした重要性に気付く人たちが存在しました。最初に神器として取り扱ったのは古代人ですし、美術品としての価値を見出したのは戦国武将でした。今更現代人の手柄のように国宝扱いするのは可笑しな話と言えるでしょう。ただ文化が廃れないように保全することは大切ですから、国宝と見做すのも悪くありません。現代人は日本刀の歴史に関心を持ち、その本質を正しく理解することで、今後の取り扱い方を認識できるようになるはずです。
日本刀という概念は、確かに古代にはありませんでした。しかし畏敬の対象として三種の神器が受け継がれてきたことに鑑みると、単純に後世の発明とは言えません。天照大神から授けられたとする神器は、長い日本史の中で絶えず伝えられてきました。その神器の一つが天叢雲剣と呼ばれる刀剣で、刀は神性を帯びると考えられてきました。日本人のこうした心性が刀匠の意匠に影響したことは疑いようがありません。鋭利な刃を神聖視する中で、それを畏怖し、それを美しいと感じてきたのです。
勘違いしている方もいらっしゃるのですが、刀剣は決して戦争を連想させるものではなく、昔から平和を齎すと考えられてきました。名刀であれば、それを見るだけで戦争の愚かさを思い知るのだそうです。”
日本刀の原点
はるか昔の日本という国は、現在のように世界屈指の発展国とはなっておらず、政治や文化、経済と言ったすべての分野において、当時、東アジアで一番の大国であった中国王朝に大きなおくれをとっていたと言われているようです。それはもちろん「刀剣」という分野でも例外ではなかったようで、国内で生産された日本刀の性能の良さは、大陸のものと比較するととてもひどいものだったのではないでしょうか。そのため、刀剣と言ったような武器は、ほぼ高確率で中国からの輸入であったのではないかと言われているそうです。「刀剣」というものは当時の日本にとっては、武器としてだけでなく、儀式や祭典などには欠かせない装飾品であったとされており、大幅に技術を革新し、クオリティの高い国産化を図るため、中国や朝鮮半島からの渡来人を帰化させ、刀剣の製造技術の発展を急いだとされています。これは、奈良県にある東大寺の正倉院に収蔵されているものからわかったとされています。正倉院には、奈良時代の文物や工芸品が数多く収められているとされ、その所蔵品目録に、「唐大刀」と「唐様大刀」と記載されているようです。「唐大刀」は大陸からの舶載品とされており、「唐様大刀」は大陸から伝わってきた刀剣を真似て、日本で製造された刀剣と言われているようです。
歴史上、一番最初の日本刀は、古墳から出土された「鉄剣」であるという考えもあるとされていますが、この説は、鉄がどこから取れたのかと言ったことや、製造者をめぐって論争が起きたまま、はっきりとした結論が出されていないため、この「唐様大刀」こそが、最初の日本刀と考えるのが良いのではないかという説も上がっているようです。
「抜き打ち・ぬきうち」
「抜き打ち・ぬきうち」は、日本刀にまつわる日本語として知られておりますが、予告や準備を行うこともなくいきなり刀を抜き斬りつけることを意味するようです。「抜き打ちテスト」は、まさになんの予告もされずに行われる、学生たちがもっともニガテとする試験の形式であるのではないでしょうか。普段の授業の聞き取りや自宅での勉強がすべての学習状況は露呈してしまいますので、多くの学生が日々のサボりグセを悔やむ一瞬でもありますよね。普段の日常生活に使用する日本語が、日本刀の居合いからくるものであるとは、多くの人々の知る由もないところであるかもしれません。「抜き打ち・ぬきうち」に似た言葉として、「不意打ち」がありますが、こちらは日本刀などにおける居合いに関連する事柄である資料はみつかりませんでしたが、奇襲攻撃をつくといった意味合いがあるようです。「抜き打ち・ぬきうち」も「不意打ち」のどちらも、争いごとに用いられる言葉であることに共通点がみられます。
試し斬りの廃止と、現代
日本刀の斬れ味を確かめるための試し斬りは、斬首された罪人の死体を扱うということもありましたし、罪人を処刑と試し斬りを兼ねて行うこともありました。辞世の句を詠むという人もいたようで、試し斬りの名手と呼ばれた人は、それらの人の気持ちを少しでも理解して仕事ができるようにと俳諧を学んでいたということもあったそうです。中でも山田浅右衛門家が家業として試し斬りを行っていたことで有名ですが、だんだんと試し斬りが難しくなってきました。法律として、刑死者の試し斬りが禁止されたのです。明治3年、1870年のことでした。その3年後には、死刑に使われるのは斬首刑ではなく絞首刑と正式に決められました。ここで山田浅右衛門家の長く続いた試し斬りの技は絶たれて、時代と共にその役目がなくなっていったそうです。しかし、明治30年頃になると、試し斬りの復活を願う集団が現れました。当然ながら人体の切断は禁止されているため、代用できるものを選んで試し斬りを行いました。特に牛や豚などが使用されていたようですが、中でも蘇鉄(ソテツ)を代用したとの記録が残っています。蘇鉄は常緑低木と呼ばれる低い木であり、日本に唯一自生しているという種類になります。この蘇鉄を斬った感触が、人体に近い感触があったと言われているのです。現代においては、専門で試し斬りの体験を行っている施設などで行うことが可能なようです。斬る物に関しては、まず畳表と呼ばれる、いわゆる「ござ」をひもや輪ゴムなどで止めて数日間水に浸しておきます。それを試斬台にある杭に立てることで、完成します。試し斬りでは袈裟斬りという、斜め40度ほどの角度をつけて、人間でいうと肩から腰の位置に向けて斬りつける方法が有名です。 |
「脇差」「短刀」「鎧通し」と花嫁さん
「脇差(わきざし)」は、約30~ 60センチほどの短い刀を「脇差」といいます。時代劇などに登場する武士などが、腰に刀を2本差しているような姿を見かけたことはありませんでしょうか。江戸時代では、大小の刀を帯刀することが定められていたようです。太刀などの大ぶりなものを本差し、小刀を脇差として、1本は予備の刀として帯刀していたようです。その他護身用などに用いられた短い刀を「短刀」と呼び、「腰刀」などとも呼ばれていたようです。時代劇のシーンなどでは女性などが、 胸元から担当を出すようなシーンを見かけたことがあるのではないでしょうか。この他にも短い刀の種類には、「鎧通し(よろいどおし)」などがあります。堅い鎧を貫くことができるほど、頑丈な武器として用いられていたようです。現代においては、和装の婚礼などで白無垢の女性の胸元に、短刀が偲ばれている風習は、災いから娘をお守りくださいというような家族の想いが形となって現れていると考えられています。
地鉄の美しさと芸術「日本刀」
日本刀は、世界においては鉄の芸術などと称されるほどであるようです。武器であるだけにはとどまらず、神器であり美術品であることは、世界に類をみない存在であるようです。日本刀の美しさの要素の1つとして、無駄のないシンプルな佇まいをあげる人々もいます。もちろん、武器としての実用性も兼ねなくてはならないので、そこには機能美や実用美が備わってくるのです。不要なものを全て省いた中に生まれた究極の芸術品である所以であるかもしれません。曲線美と直線美は、刀工が限界に挑戦しながら生み出す芸術の集大成でもあるようです。純度の高い鋼を取り出すことからはじまる日本刀づくりは、見るものを惹きつける力を宿しているいるようです。日本刀づくりにおける鍛錬は、味わい深い地鉄の美しさを生み出しているのです。地鉄の美しさは、水墨画として例えられることがありますが、絵画的な美しさが日本刀の鑑賞ポイントだと考えるコレクター達もいるようです。職人たちが手間をかけ時間をかけ鍛錬され磨き上げられる日本刀は、人工の宝石であるなどと呼ぶ人もいるようです。
鍛冶職人たちの高い志が生んだ日本刀
戦国時代、私たちが思い浮かべるのは日本刀を武器として身につける武将たちの姿でありますが、実際には刀は、長い歴史の中で武器としての主力として扱われていたのは、ほんの短い期間であったなどとも言われているようです。多くの場合戦いの記憶は弓矢や鉄砲であり、自分の身にいい感を感じた武将たちが最後の手段として刀を武器として使用していたなどとも一説としては考えられているようです。 日本刀は、武器としての存在価値が現代にまで伝承されているわけではなく、美術品や工芸品としても価値が高められていたことによって、現代においても人々の心を魅了しているなどとも考えられているようです。武器どうして生まれ、人々を守るお守りとしても身につけられ、祭事などには礼器などとして人々の生活の中に密接に関係性を築いていた日本刀は、鍛冶職人たちの高い志の中で、その機能美や実用美を追及することによって、魅力がさらに深まったとも言えるようです。
海外へのお土産としての刀剣
もし皆さんが祖父母などの自宅での遺品整理などを行う際に、長年使われていなかった倉庫などから日本刀を見つけた場合、そのまま譲り受けることは簡単にはできないようです。まずはその刀剣の鉄砲刀剣類登録証と呼ばれるものを見つけなくてはなりません。万が一見つからない場合は、きちんとした届け出をする必要があるようです。 また登録証が刀剣と一緒に保管されていた場合も、相続する場合は正式な登録の変更が必要とされるようです。最近では、海外での日本刀の人気も高くお土産として海外に持ち出しするような人々もいるようです。海外に持ち出すことはできますが、国宝や重要文化財などに登録されている名刀は、簡単には出国できないようですので、きちんと確認をする必要があるでしょう。また実際に海外に刀剣を持ち出す際の手続きは、最低でも2週間程度かかることが考えられますので、ある程度前もって手続きを行っていく必要がありそうです。また出ないに出国する際には頑丈に封印できるケースが必要となり、機内には持ち込めないため、、預け入れが必要であるようです。またワシントン条約などに関する象牙などが使用されている拵などの装飾などには注意が必要です。日本刀は海外でのお土産にするといっても、実際には武器であるのですから、手続きは慎重に行う必要があります。持ち出しをする相手国の輸入のルールをきちんと把握することも重要です。