来国行とは?刀は購入が出来るか?

来国行は鎌倉時代中期以降の刀工で、来派の事実上の祖とされています。国行によって作られた作品は、国宝や重要文化財にもなっているものもある程です。国行の作品はほぼ制作年紀が無いので、具体的な年代情報がありません。通説では康元頃に活躍したとされていて、その子供とされる二字国俊は弘安元年(1278年)の年紀を添えているので康元の時代説は間違い無いだろうとされています。

来国行の作品は、現代でも専門店やオークションで販売されていることもあるのが特徴で、専門店では外国人向けに英語のネットショップを展開しているところもあるので海外からの購入も比較的容易です。現存作品の中でも特に多いのは太刀ですが、まめにチェックするなら刀も販売されている事もあります。

「刀掛け」と向き

「刀掛け」は、日本刀をを横置きにしたり縦置きにしたりすることで主に武士たちが使用したものです。刀剣の一時的な収納や美的な美しさを求めるなかで作られたものであるとも考えられているようですが、その一方では武士たちがすばやく刀を抜くことが「刀掛け」のお役目ともされています。刀掛けに刀剣を納める際には、柄の向きによってその者の武芸への志が読み取れると言う専門家たちもいるようです。刀掛けに置かれた柄の向きによって、刀を抜き瞬時に相手を打つための動作に違いがみられることが理由として述べられているようです。刀掛けの位置は武士たちの所作を美しくみせるためにも重要な位置であるとも言われておりますが、刀の置き方1つでその者の心が読み取れることもあるのかもしれません。

勾玉と日本人

「勾玉(まがたま)」は、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代に渡り、人びとが用いたアクセサリーであったと考えられているようです。勾玉の形状は、さまざまで使用されている材料もヒスイ、水晶、コハク、ガラス、金属など多種多様なようです。「勾玉」の特徴としては、ビーズのような穴とアルファベットの「C」の文字のような形があげられます。古墳などから出土する勾玉には、「管玉(くだたま)」と呼ばれるようなパイプのような形をしたものもあるようです。主に大陸から伝わってきたとされる「管玉」は、ヒモを通して首飾りなどのアクセサリーとして使用されていたと考えられています。「鏡」「剣」「勾玉」として知られている三種の神器にも登場する勾玉は、日本人にとって何か特別な意味をなす存在であったのかもしれません。勾玉の原石となる産地をさぐることで、当時の日本国内でも広範囲に渡る交易がみられたようですが、数々の遺跡からは勾玉の製作途中での失敗作も発見されているようです。三種の神器とされる「鏡」「剣」「勾玉」の歴史をさぐってみますと、「三角縁神獣鏡」「日本刀」「勾玉」などに日本人のルーツが見え隠れしているのかもしれません。

「虎徹」以上の刀剣

新撰組の隊士「近藤勇」の所持刀が「虎徹」であったといイメージをもたれている方も多いかもしれません。専門家たちの話を垣間見ておりますと、近藤勇の刀は「虎徹」ではなかったという説が、やや優勢として捉えることもできるようです。実際には現代におきましては、ご本人に確認をとることはむずかしいのですが、歴史上の英雄たちがどんな刀剣を所持していたのかを探ることにロマンやドラマ性を感じる方々もいらっしゃるでしょう。歴史的な文献のなかで語られていることをすべて鵜呑みにしてしまうことはできませんが、英雄とされる歴史的人物たちは、後世において書き残された物語のなかで美化されたり、ドラマティックに繰り広げられる歴史的な展開が現代を生きる私達をときめかせる存在にもなり得るのです。

天下五剣はなぜすごいのか

数々の英雄の佩刀として彼等の数奇な運命と共に時代を切り開いた「名刀中の名刀」をいつしか天下五剣と呼ぶようになった。三日月宗近、童子切安綱、大典太光世、鬼丸国綱、数珠丸。

以上の五振は、明治の初めから昭和の初めにおいて。刀剣研究者達のその著書おいて紹介され、その名声が不動のものとなった。五剣の五という数字の意味合いは、鎌倉五山、京都五山というように、天下無双の名刀の数として五の数字が尊ばれたのだろう。

数ある日本刀の中でこれらが天下五剣とされた理由は、まず第一にその卓越した出来栄えが挙げられるだろう。また、経てきた由緒来歴も名刀の重要な条件となるだろう。

天下五剣は、室町時代、戦国時代を通じて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の覇者をはじめとする多くの武将がこぞって我が物にしようと躍起になった。その過程で幾多の悲喜劇が繰り返されてきた。まさに、そうした多くの逸話こそが天下五剣の魅力と魔力のなせる業といえるだろう。

肥前忠吉

肥前忠吉は、江戸初期に肥前国を中心に活躍した新刀派の刀工である。元は肥前の戦国大名龍造寺隆信の家臣橋本道弘の子で本名を橋本新左衛門という。

天正12年、沖田畷の戦いにおいて祖父と父が討死し、忠吉はまだ13歳であったため知行断絶となった。その後、忠吉は刀工になる道を選び、山城国の埋忠明寿に入門した。慶長3年、肥前国佐賀に帰国。

佐賀藩主鍋島勝茂に刀工として世禄25石で召し抱えられた。 晩年、「武蔵大掾」を受領した。忠吉の銘は、作刀時期によって4つの銘に分かれる。初期は肥前国忠吉の「五字忠銘」次に僧侶秀岸の文字を真似た「秀岸銘」肥前国住人忠吉作と銘を切る 「住人銘」を経て、武蔵大掾を受領し名を忠広と改め武蔵大掾藤原忠廣と切る「忠広銘」と変遷する。

代表作には特別重要刀剣 「刀 銘 肥前国忠吉(倶利伽羅)」重要刀剣「刀 銘 肥前国忠吉」重要美術品「肥前國住藤原忠廣/刳物 埋忠七佐」などがある。

ステンレス包丁

ステンレス包丁の良さは、優れた衛生面をあげる料理人が少なくないようです。料理人の格付けとも言われる「包丁選び」は、近年に登場したステンレス包丁によって少しずつ変化がもたらされてもいるようなのです。

これまでの和包丁と言いますと日本刀の製造技術を用いる「本焼き包丁」と鋼と鉄を駆使する「合わせ包丁」がメインであったようですが、ステンレス包丁が登場するようになってからは、その優れた衛生面や水切れの良さ、メンテナンスのしやすさなどが注目を集めているようです。

またステンレスの長所として、食材に金属製の香りがつきにくいというような特徴もあるようなのです。

さらにはプロの料理人たちが使用しても満足できるような、新素材への改良が加えられることからその人気が高まっているとされております。

大和守安定

大和守安定は、江戸初期、武蔵国の刀工である。本名は飛田宗兵衛、または富田宗兵衛という。紀伊国の刀工集団「石堂派」に属する刀工といわれている。慶安元年頃に出府、幕府御用鍛冶「二代康継」に入門し作刀に励んだ。

師匠に関しては「二代康継」以外にも「和泉守兼重」「安広」に師事したと伝わっている。鋼に粘りを持たせる技工「焼き戻し」を用いた切れ味の良い刀剣を江戸幕府御試御用にも再三献上している。

中でも「天地開闢以来五ッ胴落」という恐ろしいまでの切れ味を誇る刀もある。明暦元年、仙台藩に招かれ、伊達政宗と徳川家康の菩提を弔うため各一振を作刀している。

作風は、反りが浅く先反りの江戸新刀の刀姿である、刃文は「沸出来」、または、「互の目乱」で黒ずんだ地肌が特長である。

銘は「大和守安定」「武蔵國住大和守安定」「富田大和守安定」「大和守源安定」代表作は、特別保存刀剣「刀 銘 於武州江府大和守安定作」

山城伝の多様性

三条派は、宗近の子孫である吉家、兼永と継承されていく。また、平安期末から鎌倉期初めに國家を始祖とする粟田口派が誕生し、國友、久國、國安、國綱が登場する。

さらに、鎌倉期初めから南北朝期半ばに、國行を始祖とする来派が登場する。来派からは始祖國行を始めとし、國俊、國光、了戒、國次、國長等の現代にまで名を残す名刀工を輩出した。

「山城伝」といえば来派といわれるほどである。「山城伝」の代表的な作風は、反りが刀身の中央にある輪反り、根元から反りがある腰反りが特長である。地鉄は、小板目がよく詰み、細かな地沸が厚く均等に付く。帽子には大きな崩れは無い。

刃文は、小沸が深く、直刃で小乱れ、小丁子交じり。金筋、地景、二重刃、湯走りなど多様である。この多様さは、「山城伝」の長い繁栄期、複数の流派の存在が生み出したものといえるかもしれない。

「短刀」と花嫁

「短刀」は人々の生活を支える道具として身に付けるようになり、護身用として武士たちも日常的に携帯するようになったと言われておりますが、戦いの場においての接近戦などでの活用が見込まれるとともに「腰刀(こしがたな)」などの呼び名のもとに多くの武士たち間で携帯されるようになったそうです。「短刀」と呼ばれものは、現在においては約30 CM 以下の短い刀をそう呼ぶそうです。「短刀」には、日本刀の特徴などとも言われる曲線美は見られず、多くの場合が「平造(ひらづくり)」などとされる反りのないタイプの刀剣であります。「短刀」は接近戦などに備えるための護身用としてだけではなく、人生のターニングポイントとされるお祝い事やハレの日などにおいて贈答用や宝物として価値あるものと重宝されてきたようです。「短刀」は護身用としての「守り刀」の意味合いが強いと思われがちですが、自らの命を託するための道具でもあったようです。お守り刀として花嫁が「短刀」を花嫁衣裳に忍ばせる風習は、現在でもその名残がみられます。